エッセイ

「好き」の反対は「無関心」?いや、「好き」と「無関心」は同義である。

「好きの反対は無関心である」

今日はこの言葉をキッカケに、「関心」について考えます。

「好き」の反対は「無関心」論

「好きの反対は無関心である」とは、「好きの反対は嫌いではなく、無関心である。なぜなら本当に嫌いだったら関心すらもたないから。」という論です。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

「関心」に潜むエゴイズム

好きの反対は無関心であれば、関心を持っていることは好きということになります。

関心を持つということは、期待することです。

自分が思っているようにならないかな」と相手に注意を向けることです。

相手に好意を抱いているときは、「この人はわたしが善いと思っていることをする」という期待を持ちつつ相手に接します。

相手に反感を抱いているときは、「この人はわたしが善いと思っていることをしない。しかし、わたしがこの人に働きかければ、わたしが善いと思っていることをしてくれる(もしくは悪い意味で「終わらせる」ことができる)可能性は残っている。」という期待を持ちつつ相手に接しているのです。

二つの例に共通することがあります。

そう、共に「わたしが善いと思っていること」を相手に望むというエゴイズムです。

関心が強ければ強いほど、相手に自分の価値基準を押しつけているということです。

以前書いた「ほめる」ことについてと同じ様な話ですね。

参考→[η]「意識が高い」というほめ言葉にまとわりつく違和感 | ハックの哲学

そして、相手が自分の期待に添わない行動を取ると自分の価値基準を否定されたと認識し、期待値が高い=関心の度合いが強い=好きでいればいるほど、大きな反動が生じ、相手に否定的になります。

ファンのアンチ化はこのようなメカニズムでしょう。

また、好きだからこそ自分が善いと思うことを押しつけてしまうのは、親と思春期の子どもの関係によく見られます。

優しい無関心

「優しい無関心」という言葉をご存じでしょうか?

アルベール・カミュの「異邦人」に出てくる言葉ですが、哲学者である中島義道さんの解釈がこちら。

わたしは、「人がもっとも幸せになれるのは、自分で自分の道を選び、その道を進むとき」という信念を持っています。

人の価値基準で行く道が決まる人生なんて、生きていておもしろくありません。

好きな人には自分で自分の道を選んで貰いたいので、自分の価値基準を押しつけないよう、できるだけ「優しい無関心」でいます。

わたしの中で、「好き」と「(優しい」無関心」は同義なのです。

だから、わたしは人といるときには自分を語らないし、後輩を飲みに連れて持論を展開するなんてこともしません。

薄情に見えるかも知れませんが、わたしの話を聞くよりも、その時間を使い自分で自分の考えを深めた方がよりその人の幸せのためになると思っているからです。(これも価値基準の押しつけ&内向型に拍車をかけているのですが)

自分の道を自分で決めた人、つまり見る意思がある人の目にしか止まらないブログという場所で自分の考えやアイデア、理想を公開しているのもこの考えからです。

関心が強すぎるから嫌いな人ができる

嫌いな人がいる人は、「自分の価値観は絶対正しい」&「相手も自分が働きかければ行動や考え方を改めてくれる」という想いが強すぎる傾向があります。

それに従った結果、今の自分があるので、「自分の価値観は絶対正しい」と思いたくなる気持ちもわかりますが、他の人がその価値観で生きたとして幸せになれるとは限りません。成功事例があなた(わたし)一人分しかないのですから。

「いや、あの有名な人の本にも書いてあったし!」という場合でも、事例が一人分増えただけです。相手にとってもその価値観が正しいかは相手次第なので、事例の数がいくら増えても関係ありません。もちろん、著者の知名度と正しさにも因果関係はありません

相手に過剰に働きかけようとするのも自分の価値観が絶対であると信じ込んでいることが原因です。新興宗教の勧誘みたいなもんですね。他の価値観の存在が許しがたいのでしょうか。

上記の二つを手放し、優しい無関心を実践しいてるわたしは、人生で嫌いな人ができたことは一度もありません。(もちろん、周囲の人に恵まれているというのもあります)

まとめ

わたしは上記のようなスタンスですが、みんなが優しい無関心になると、社会が回らなくなります。

組織を牽引するリーダーが優しい無関心実践者であったら、組織はまとまらないでしょう。

飲みに連れていって、自分の経験を語ってくれる先輩がいなくなったら、社会全体の技能伝達効率がググッと下がるとも思います。

ただ、中島さんも言っているように人間関係で悩んでいるならこのような考え方もあることを知っておいて損はありません。

中島さんのように、人生を半分降りる、つまり社会の理の外で生きるのもアリですよ。

中島義道 4 エピソード – Wikipedia

(結局、冒頭の本当に「好きの反対は無関心である」であるかについては考えていませんが、自分に復讐に来た人間に「あぁ、わたしのこと好きなんだな♪」とは絶対に思えないので、「好きの反対は無関心である」は成立しない気がします。)


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