エッセイ

「意識が高い」というほめ言葉にまとわりつく違和感

学生のとき、わたしは就活者を対象にしたロジカルシンキングセミナーに行きました。

そのセミナーは就職活動が始まるよりも何ヶ月か前に開催されました。そのときの講師がセミナーの冒頭で、「このセミナーに参加される方は意識が高いと思いますが~」的なことを言いました。

そのときにわかしが感じた違和感について、考えてみます。

「意識が高い」とは

ここでの「意識が高い」とは、ネタで使われる「意識高い系」の話ではありません。

意識高い系とは (イシキタカイケイとは) [単語記事] – ニコニコ大百科

純粋なほめ言葉としての「意識が高い」です。

講師から出た「意識が高い」という言葉に、言外の意味を補完するとおおよそ以下のような意味になるでしょう。

「就職活動が本格化する何ヶ月も前から、就職活動に向けての活動をしているなんて、就職活動を成功させようとする意識が高い」

これがほめ言葉なのかという問題ですが、気持ちを盛り上げるべきセミナーの冒頭という状況から、言葉を発した講師はほめ言葉として使っていると判断して差し支えないでしょう。

普通のほめ言葉との違い

「意識が高い」は普通のほめ言葉ではありません。

普通のほめ言葉として、「優しい」を例に挙げます。

「意識が高い」と「優しい」の違いは何か?

それは、「それを善いと考える人の多さ」です。

「優しい」は日本人の95%程度が善いと考える性質と考えるでしょう。しかし、「意識が高い」ことが善い性質と考える人はどれだけいるでしょうか。独断ですが、70%程度しかいないのではないでしょうか。

実際、わたしも「意識が高い」ことが必ずしも善いこととは思っていませんでした。当時、わたしは人よりも能力が劣っていると感じており、「せめて準備だけは前もってしなければならない」と、どちらかというと後ろ向きな動機でセミナーに参加していたからです。

ほめるとは他者へ自己の価値基準を適用すること

ここまでであれば、「ひねくれた解釈せずに、褒められたんだから素直に喜んどけよ」という話になってしまうので、もう少し深掘りします。

「ほめる」という行為を詳しく説明すると、「自分が善いと思ったことを、相手に伝えてあげること」となります。

ここで注意したいのは、「ほめる」という行為の起点は自分の価値基準であると言うことです。つまり、ほめることは自分の価値基準を相手に適用することです。

この価値基準が「優しい」など、普遍的なものであれば問題ありませんが、そうでない場合、よかれと思ってほめた場合でも受け手はよく思わない、二者間の価値基準の齟齬が発生します。

冒頭のセミナーでわたしが感じた違和感も、講師とわたしの価値基準の齟齬が原因だったと言えます。

「この場にいる人たちは善であるかのような発言だけれども、わたしはそうではない。あなたの価値基準をわたしに押しつけるな。」と、当時のわたしは感じていたのだと思います。

まとめ

「ほめる」という行為には好意が込められています。このことは間違いありません。

しかし、ほめることは厳密に言えば自分の価値基準を相手に適用することです。

そう考えると、「ほめる」という行為は相当危ういことのような気がしてくるから不思議です。



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